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第一章:絶望の深淵

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-02 19:17:57

 三ヶ月前――水瀬凛の人生は、·········

 父が創業した中堅アパレル商社「水瀬商事」は、彼女が二十五歳で結婚した夫・拓海に経営を任せていた。凛自身はデザイン部門で働き、小さいながらも充実した日々を送っていた。

 南青山のマンション。毎朝のジョギング。週末の美術館巡り。

 平凡だが、確かな幸福があった。

 それが崩れ始めたのは、七月の終わりだった。

「凛、ちょっと話がある」

 その夜、拓海は珍しく早く帰宅した。しかし彼の表情は硬く、目は凛を見ようとしなかった。

 リビングのソファに座り、拓海は淡々と言った。

「会社が、危ない」

 凛の手から、持っていたワイングラスが滑り落ちそうになった。

「どういうこと?」

「ここ半年の売上が急落してる。取引先からの支払いも滞ってて……銀行からの融資も、もう限界だ」

 拓海の声には、諦めが滲んでいた。

「でも、先月の報告書では黒字だって――」

「粉飾だよ」

 その一言で、凛の世界が揺れた。

「何を言ってるの? 粉飾って……それって犯罪じゃない」

「分かってる。でも、そうしないと取引先が離れていくんだ。もう後戻りできない」

 拓海は顔を手で覆った。

「お前の父さんの会社を、俺が潰してしまった」

 凛は立ち上がり、拓海の肩に手を置いた。

「まだ何とかなるわ。私も働く。私のデザインで何か――」

「無理だ」

 拓海は凛の手を振り払った。

「お前のデザインなんて、趣味レベルだ。それで会社が救えるわけがない」

 その言葉は、凛の心臓に突き刺さった。

 それでも凛は、希望を捨てなかった。夜遅くまでデザイン案を練り、取引先に営業の電話をかけ、できる限りのことをした。

 しかし、運命は容赦なかった。

 八月の中旬、主要取引先が一斉に契約解除を通告してきた。理由は「経営状態への懸念」。

 九月に入ると、銀行が融資の即時返済を求めてきた。

 そして九月の終わり――会社は破産を申請した。

 父が三十年かけて築いた会社は、三ヶ月で消滅した。

 だが、本当の悪夢はそこからだった。

 破産手続きが進む中、凛は拓海の異変に気づいた。彼は夜遅く帰宅し、携帯電話を肌身離さず持ち歩き、凛の目を見て話さなくなった。

 ある夜、拓海が寝た後、凛は彼の携帯電話をこっそり見た。

 そこには、彼の秘書・倉持美咲とのメッセージが大量に残っていた。

『今夜も会える? 拓海のこと、待ってる』

『凛には言わないで。もう少しだけ時間をちょうだい』

『一緒にやり直そう。新しい会社を、二人で』

 画面を見つめる凛の手が、震えた。

 翌日、凛は拓海を問い詰めた。

「美咲さんと、いつから?」

 拓海は観念したように、全てを話した。

 交際は一年前から。会社の経営が傾いたのは、拓海が美咲と新会社を設立するために資金を横流ししていたからだった。水瀬商事は最初から、捨て駒だった。

「お前には悪いと思ってる」

 拓海は平然と言った。

「でも、お前と一緒にいても未来が見えなかった。お前は優しいけど、俺を高めてくれる女じゃない。美咲は違う。彼女は野心があって、俺のビジネスを理解してくれる」

「じゃあ、私は何だったの?」

 凛の声が震えた。

「お前は……便利だった。水瀬商事という看板と、お前の父親のコネクション。それが欲しかっただけだ」

 拓海は離婚届を差し出した。

「サインしてくれ。慰謝料は払えないが、借金の連帯保証人からは外してやる」

「……外してやる?」

 凛は笑った。笑うしかなかった。

「あなたが作った借金なのに?」

「お前には価値がない、凛。··············

 その言葉で、何かが凛の中で壊れた。

 翌日、凛は離婚届にサインした。マンションを出て、安いアパートに引っ越した。就職活動を始めたが、破産した会社の元役員という経歴は、どこでも敬遠された。

 友人だと思っていた人たちは、次々と距離を置いた。SNSのメッセージは既読無視され、電話は出てもらえなくなった。

 父は脳梗塞で入院中。母は十年前に他界している。頼れる親族もいない。

 貯金は底をつき、家賃も払えなくなった。

 そして十一月のあの夜――凛は橋の上に立った。

 全てを終わらせるために。

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